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日本マインドフルネス精神療法協会
Japanese Association of Mindfulness Psychotherapy (JAMP)
*** マインドフルネスSIMT、西田幾多郎の実践指針 *** |
マインドフルネスは、日本に最も深いものまであるのです。自己の働きを「観察」する実践の極致は、西田哲学でいう「絶対」「世界」の立場まであります。西田幾多郎のいう「至誠」の立場の実践(抽象的思惟でない、具体的実践)です。自分(の組織、会社、集団、職業集団)だけの利益を優先する人間がいます。「独断の叡智的自己」です。
自分たちの満足を重視する浅いマインドフルネスもあります。こういうことは、禅や西田哲学で検討済みです。現代の人は(大学のなかにいる人でさえも=オルテガの言葉)、たぐいまれなる宝、大切な西田哲学を理解できず失ってしまいました。
日本マインドフルネス精神療法協会は、東洋哲学(日本の禅や西田哲学)にみられる「至誠」「己を尽くす」「自分の利益や自分の団体の利益でなく、社会全体の立場から見ること」を実践方針とするマインドフルネスを研究し、実践への努力(=己を尽くす方向)をしていきます。「至誠の叡智的自己」です。
「主観的独断」や「私欲」に気づき抑制し、「全体との関係において見」て、クライエントまで全部の関係者との調和をはかる生き方のような深い日本の実践哲学を背景にしたマインドフルネスを研究、実践していきます。
(大田健次郎「東洋哲学・実践にあるマインドフルネスの多様な局面」45-54頁。)
驚くべきことですが、科学・学問にも、独断がはいり込みます。研究者が至誠の実践になっていないのです。世界の立場でなく、個人、または、所属する組織の立場になってしまうのです。この構造も西田哲学があきらかにしています。
オルテガがいう「大衆」です。
西田哲学は、東洋哲学の構造を論理化したので難解ですが、西谷啓治(哲学者)によって確認され、鈴木大拙(禅学者)、秋月龍a(元花園大学教授)、竹村牧男氏(東洋大学学長、仏教学者)からも評価を得ています。
こうした西田哲学を心理療法化し、さらに、健康なすべての人の人生価値の実現のための生活実践化を目標とするマインドフルネスSIMTの研究を続けていきます。カウンセラー育成講座、マインドフルネス精神療法研究会などで研究し実習し、現実生活の中で実践していきます。
(注) 西田幾多郎には、次のような言葉があります。西田哲学のテキストには、もっとたくさん書いてあります。研究会でみていきます。下記の言葉も理解しにくいでしょうから、少しづつ注釈を加えていきます。西谷啓治の論文でも学習します。
哲学書を読んで理解しても、全く変わりません。具体的に行動できていないからです。生活実践化していないからです。 思考(西田哲学では「思惟」という)は、行為と同じではありません。行為しなければ、社会・世界(家庭、職場、組織、クライエントを含む関係者など)は変革しません。
現実に現存した仏教や禅が、自分の修行の前後、学問研究の前後に、西田哲学でいう至誠を実践されたでしょうか。今はどうでしょうか。前も後も、厳しい実践を西田哲学は要請しています。
西田幾多郎の言葉です。
「哲学は我々の自己が真に生きんとするより始まる。我々の自己の自覚の仕方であり、生き方である。」(「知識の客観性について」10巻176頁)
「私は東洋道徳の根本は誠にあると思う。至誠とか純一とかいうことにあるのである。単に誠といえば主観的感情と考えられるが客観的にはそれが私の所有物となるということである。恰も母が子となるが如くである。そこから無限の知も行も出て来るのである。」(「ポイエシスとプラクシス」10巻176頁)
(上の続き)
「物となるということは、受働的となるということではない。至誠は無限の動でなければならない。又或一つの物に固定するということではない(母の我子を愛する如くに)。至誠とは何処にも止まらない心でなければならない。毫厘も止まる所あらば、私欲である。」
(「ポイエシスとプラクシス」10巻176頁)
(上の続き)
「それでは至誠とは単に無心ということであるか。否、それは所として心ならざるはないということで(なければならない、心が天地に充満していることである。至誠ということは、無意識ということではない。そこには常に主客が具わっているのである。物となって識別することである。又それは単に衝動的ということではなく、己を盡すことでなければならない。
物を全体との関係に於いて見ることでなければならない、絶対の立場から見ることでなければならない。」(「ポイエシスとプラクシス」10巻176頁)
(上の続き)
「至誠とは我々の自己が絶対者への絶対的関係において絶対者の自己射影点となるということでなければならない。故に至誠においては一歩一歩が絶対である。我々は至誠において、いつも絶対に触れているということができる。」(「ポイエシスとプラクシス」10巻176頁)
「理性によって否定すべきものは現実ではなくして、我々の主観的独断でなければならない、ドクサでなければならない。我々が自己の主観を棄てて真の現実となって働く所に、我々の行為があるのである。真に与えられるものは、課題でなければならない。現実は此方から考えられるものではなくして、彼方から現れるものでなければならない。現実の認識はポイエシス的自己の行為的直観による外ないのであろう。」(「実践哲学序論」10巻103頁)
「純なる場所的自己限定として、一毫の私なきところ、私はこれを誠と考える。しかして、至誠は大悲大慈に基礎づけられていなければならない。私は実践理性の根拠を、ここに置きたいと思う。カントの道徳は、市民的である。歴史的形成的道徳は、悲願的でなければならない。西洋文化の根底には悲願というものがなかった(鈴木大拙)。そこに、東洋文化と西洋文化との根底的相違があると思う。」(「場所的論理と宗教的世界観」11巻445頁)
凡例)
引用にさいしては、現代仮名遣い、現代漢字に書き改めている。
参考文献
西田幾多郎「実践哲学序論」『西田幾多郎全集』第十巻、岩波書店、一九六五年。
西田幾多郎「ポイエシスとプラクシス」『西田幾多郎全集』第十巻、岩波書店、一九六五年。
西田幾多郎「知識の客観性について」『西田幾多郎全集』第十巻、岩波書店、一九六五年。
西田幾多郎「場所的論理と宗教的世界観」『西田幾多郎全集』第十一巻、岩波書店、一九六五年。
永井均『西田幾多郎』NHK出版、二〇〇六年。
大田健次郎「東洋哲学・実践にあるマインドフルネスの多様な局面」『マインドフルネス精神療法』創刊号、日本マインドフルネス精神療法協会、二〇一五年。